〔展示〕
2019年2月8日(金)~20日(水)
12:00~20:00(水曜日~17:00) ※木曜日休廊
「バカート展3人 in Tokyo」
牧田恵実、大塚聰、OOM
スペースM、S、E
〔概要〕
「バカート展」 なぜ開催するのか?(2019年・ショートバージョン)
■「バカート展」の立ち位置
「自分の所属する国を愛している」からこそ、「所属する国の問題点や黒歴史等々を敢えて問題提起する」というスタンス。
「バカート」をやる意義は、「アート界に対してではなく、日本人の価値観・社会や世間の問題点へ揺さぶりをかける」という事だと考えています。(具体例:「クリント・イーストウッド」監督や「北野武」監督の立ち位置を考えております。)
■ほんまもんの「バカ」をコケにせよ
この国の「諸問題」は、実はほとんどの人々がわかっているのだと思います。
しかし、様々な理由で「国畜」になるしかないという「現実」に屈せざるを得ない。
この様な人々やニッポン社会の真の弱者(私なりに解釈すれば、真面目に努力しているのに報われない人々)の声の代弁者たる「戯作者」、いや「傾奇者」、いやいや!!言葉を作ってしまえ!「バ傾奇者」という存在として、日本人・日本社会の「ベタ」な所を笑い飛ばしてしまおう!!という事なのです。
『バカ』をやることで、ほんまもんの『バカ』をコケにする…、という事なのです。
■「ほんまもんの『バカ』」をもうちょっと説明すると…
例えば、政治家を引き合いに出すなら、政治家が努力し、貢献したゆえ国民の安全・生活・財産等が守られた部分も沢山あるはずです。
しかし、こういう部分は「やってもらって当然」とばかりに享受し、普段は押し付け・無関心。何かあった時だけ、「悪いところ」だけをあげつらって批判する。これで「社会に対して物を申した」「社会に参加した」と勘違いしている「『ニッポンとその社会・世間』を笑い飛ばす」という事なのです。
攻撃する対象はたくさん有りますよぉぉ!!「寄らば大樹の陰的ブランド信仰」・「縦割り社会」・「肩書き優先社会」・「自ら極度に型にはまって行く」・「実は自由に発言できない」等々!!
■具体的な作品例
「大塚聰」さんの作品「ルイヴィトン作業着シリーズ」です!!
ご存じない方のため、説明すると、「ヘルメット」「工事現場の作業着」「地下足袋」に手書きで「ルイヴィトン」のモノグラムを書き込み、それを実際に着て街を練り歩く、という作品です。大塚さんによると、「戦後日本人のブランド信仰への皮肉」という事です。(だからと言って、ブランドそのものを批判しているわけではありません)
ニッポン人の価値観を揺さぶる高度な事をやりながらも、いい意味で一般人受けもし、皆を笑わせ、大衆を巻き込む…!!そして!!この「大衆を巻き込む」という事が「バカート」にとって重要な事のひとつとなります!!
■「大衆を巻き込む」とは?
アートにおいて、「高度な理論」「評論」「技術」等は必要です。
しかし、それが「わかる人にだけわかれば良い」という姿勢になるのは如何のものか?古い考え方だと思うし、傲慢であり、独りよがりな作家の怠慢でもあるのでないか。
つまり、「知識・理論」を最優先させるのではなく、「バカート」においては、「心意気・心情」を問題とするのです。
大衆は芸術を敷居の高いものと敬遠しがちですが(ニッポンの権威主義も影響していると思います。)、その「垣根」を取り払っちまおう!という事なのです。
■批評性の有る作品じゃ無いと駄目なの?
いえいえ!解かりやすい「表現」で良いのです。純粋に「馬鹿馬鹿しい作品で皆を笑わせてやる!」で良いのです。
表現の幅を制限せず、フレキシブルに活動し、作品を見て、コミュニケーションを重ね、様々なことを検証していく…。こういった行為が大切だと思うからです。
歴史を見ても、「失敗したもの」「思い付きで作ったもの」「慌てて間に合わせで作ったもの」が高い評価を得て、社会性を帯びていくという事例も多いと思います。
とはいうものの、必然的に「バカなアートをやる」という括りは出来てしまいます。「笑い」という我々の武器にオブラートの様に包んでしまうことにより、我々を攻撃できなくしてしまう。いや、攻撃したやつらが、それこそ「本当のバカ」に見えてしまう。
故に「バカート展」!!!!!!!
ねぇ!ずるいやり方でしょぉ(笑)。「笑い」を免罪符にしてしまうという(笑)。
■我々表現者ハ「無血開城」ヲ望ム
ニッポンの諸問題に対して「不感症(不干渉)」になっている人々に対し、「表現(者)に対する無血開城」を望むものであります。
― 御拝読、ありがとうございました
OOM(ダブルオーエム)
2019年1月